友達からのメール  その2

食べる

 私は、食べるということをもっと楽しみたい。

 現在、大学生である私は、夜遅くまで研究室に残る事がある。先日もそうだった。

 大学を出たのは夜の十時過ぎ。「さて、夕食はどうしよう」と考えたが、コンビニエンスストアで何か買って食べることくらいしか思いつかなかった。おにぎりと菓子パンを一つずつ買い、部屋に帰って一人で食べた。「楽しくないな」と、ふと思った。おにぎりのお米の味も、菓子パンの甘いクリームの味も、どこか寂しさの残るものだった。

 鎌倉に私の大好きな料理屋がある。「漁」というその店は、六十過ぎの女主人が一人で切り盛りしているとても小さな店だ。その店を私に教えてくれた友人と、鎌倉へ行く度に訪れる。私たちはその女主人のことを「おばちゃん」と呼んで慕っている。取れたての魚の刺身、野菜の煮物、季節の山菜などが入った「漁弁当」を食べる。「この魚は今朝取れたからおいしいよ」などとたわいのない話をしながら。同じ「食べる」でも、この時は「楽しい」のだ。

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 この二つの「食べる」の間にある違いを考える。漁では、誰かと一緒に食べる。料理をした人を目の前に食べる。会話をしながら、時に笑いながら食べる。すぐ近くの海で取れた新鮮な魚だということを知りながら食べる。一人の部屋では、一人、食べることだけしかせずに、ただ黙々と食べる。誰が作ったのかもわからないものを、何が使ってあるかよく判らないものを食べる。

 現代は、食べることの楽しみを、なかなか享受できない社会になっているのではないだろうか。核家族化、共働きなどのライフスタイルが、個食、孤食などの言葉を生み出す結果となっている。経済的に豊かになった反面、飽食、崩食といった言葉で指摘される食の現状がある。

 一方で、スローフードや食農・食育といった言葉も生まれている。豊かな食を、そしてその食生活を実現するライフスタイルを目指す人々が生まれてきている。食べることは簡単にすればどこまでも簡単に済ますことができる。ファーストフードを口に放り込めば生きて行くのに必要な熱量は、簡単に摂取できる。しかし、「たべる」ということは、ただ単純な「熱量摂取」ではないと思う。漁での「食べる」ということは、決して短時間で済むものではないが、それは先に挙げたスローフードや食育・食農などの言葉が目指すものの欠片が沢山潜んでいる。だから、楽しい。


 私は食べることを楽しみたい。楽しむことができるような社会を作りたい。自らの生活にある「食べる」ということ「楽しむ」ことがその第一歩になると思う。


 このメールを送ってくれた友達には何度も助けられたし、今後も助けてもらうだろう。
 今度遊びに来た時には、また”漁(いさり)”に連れて行こうと思う。
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by umizo1000 | 2005-04-08 00:30 | 湘南・藤沢・鎌倉
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